前川國男邸

所在地 (旧所在地)東京都品川区上大崎
(現所在地)東京都小金井市小金井公園内
竣工 1942年(昭和17年)
1996年(平成8年)移築
設計 前川國男



建築家が最も「好きなようにできる」仕事
それは、自分の家です。
請け負った仕事だったら施主の求めるものを建てなければいけませんが
自分の家なら何でもやりたい放題です。
建築家の家は一番その建築家らしさが表れる建物と言えるかもしれません。

小金井市の「江戸東京たてもの園」の中に
日本建築史上名高い、ある建築家の家が移築されています。





前川國男邸



20世紀最大の建築家 ル・コルビュジエの「弟子」であり
日本モダニズム建築の旗手と言われた
建築家 前川國男の自邸です。



新潟に生まれた前川國男(1905〜1986)は
東京帝大(現東大)在学中に
当時新進気鋭の建築家だったル・コルビュジエを知り
卒業後、単身フランスに渡り、ル・コルビュジエの事務所で働きました。
「伝説」によれば、國男青年は卒業式の日
安田講堂で卒業証書をもらったその足で神戸港に向かい
そのまま神戸港から船で中国へ渡って
対ソ干渉戦争冷めやらぬソ連をシベリア鉄道で一週間かけて横断し
パリのル・コルビュジエの事務所にたどり着いたと言われています。

ル・コルビュジエと國男青年はお互いを「コル」「クニ」と呼び合い
やがて重要な仕事も任されるようになりました。
2年間フランスのル・コルビュジエのもとで働いたのち
1930年にクニ青年は日本に戻ってきます。
「2年で戻る」というのは出発前に親と交わした約束だったそうで
もうひとつ「青い目の女性と結婚しない」という約束もあったそうです。





帰国後、クニ青年は数多くのコンペに参加し
当時日本にはまだほとんど紹介されていなかった
「モダニズム」の建築を提案していきます。
そのほとんどは落選でしたが
当時の日本建築界に大きなインパクトを与えたことでしょう。

1935年には自分の事務所を設立し
少しづつ実作も増えていきました。
しかし、時代は戦争前夜の暗い時代
日本古来の伝統文化への回帰が叫ばれ
その波は建築界をも飲み込んでいきます。
そして、1941年の太平洋戦争の勃発により
長い、暗い時代が幕を開けました。
この家は、その開戦の翌年に建てられたものです。



   

黒く塗られた壁は空襲に備えたものでしょうか。
当時の文化状況を反映して、瓦屋根を載せた和風のデザインになっています。
そうせざるを得なかったのでしょう。
しかし、そこはモダニスト前川
一見和風のこの家には、モダニズムの精神があふれています。





この家最大の見所は、家の中心にあるリビングです。
ロフトを備えた吹き抜けになっていて
大きな窓から明るい光が入ってきます。
その明るさは想像以上
南側の壁は上から下まで丸ごと窓になっているので
非常に解放感にあふれた明るい空間になっています。
そしてこのリビングこそ、前川先生の卓越した発想の結晶なのです。

戦時中、「木造建物建築統制規制」という法律により
新築の家の大きさは延床面積100平方メートルまでと決められていました。
この制限の中で、いかに部屋を広く見せるか
その答えがこのリビングだったのです。





さて、ここに取り出しましたは五角形に切った紙
前川邸の正面と同じ形です。
これを以下のような手順で折ると・・・



(1)  (2)  (3)

元の五角形の面積のちょうど半分の四角形ができます。
これがこの五角形の中にとることができる
最も効率がよく、ムダのない2階分のスペースです。
これより縦に高すぎると幅が狭いし
横に広すぎると2階分にしては天井が低すぎます。
さて、これを前川邸と比べてみると・・・



   

実際には屋根の厚みや柱の太さの関係でズレがありますが
だいたい同じくらいの大きさになっています。
リビングの窓は、数学的に最も合理的な形になっているのです。
いかにもモダニストらしいアプローチです。



   

さらに、このリビングは北側にも南側にも窓が付いていて
両方の窓を開けると、家の中を通って北側と南側の庭を行き来できます。
つまり、家の中に「道」ができるのです。
これは実に深い意味合いを持ったことなのです。

ル・コルビュジエが定義した「近代建築五原則」の中に
「ピロティー」というものがあります。
これは、柱で支えられた壁のない空間を意味するフランス語で
実用上は人間や交通機関の流れを妨げないという利点があり
そして象形学的には「建築の大地からの独立」を意味します。

このリビングも、両側の窓を開けることによって
南北方向に柱だけで支えられた、遮るもののない空間に変身します。
そう、このリビングは窓を開けると「ピロティー」になるのです。
ここにも、ル・コルビュジエ流の建築言語が生かされています。





戦時下の物資不足の時代でしたから
建材の入手もままならなかったそうです。
そのような限られた状況の中でも、工夫を重ね
豊かな空間を実現しています。

窓はガラス以外、サッシの車輪・レールに至るまで
すべて木材でできています。
そして、リビングの窓を2階まで貫く柱は
なんと要らなくなった古い電柱を再利用したものです。
電柱なら強度は保証済みだし、何より「廃材」なのでタダ同然です。



   

空襲により銀座にあった事務所が焼けたため
1950年代までは仮の事務所としても使われていました。
戦争が終わったその4日後、1945年の8月19日に
前川先生は「モンペ姿のまま駆けてきた」という美代夫人と結婚します。
新しい事務所が完成した後は、前川夫婦と
さらに飼っていたプードル「プー公」の2人+1匹で暮らしていました。
なんとリビングには、今でもプー公を模した人形が・・・
子供のいなかった前川夫婦にとって、プー公は大切な存在だったのでしょう。
前川先生はプー公のために、一時期リビングの床を
ピータイルに張り替えていた、という逸話も残っています。

1973年に前川夫婦が引っ越したあと、この家は解体されましたが
「壊すのはあまりにももったいない」との弟子達の訴えにより
部材が軽井沢の別荘に保管されていました。
その後1996年に、現在の場所に復元されました。



   

さて、このロフトに続く階段・・・
普段は部材の保護のため、一般の人は上がれません。
嗚呼、上がってみたいなぁ・・・上からこのリビングを見てみたいなぁ・・・
そう思っていたのですが、なんと!!
ひょんなことから特別に上に上がらせていただきました!!!

家の中で感動しながら写真を撮っていたら
解説員のおばさま若々しいおねえさまが
僕に前川邸の詳しい案内をしてくださいました。
(窓の大きさ、ピロティーの話もおねえさまから聞かせていただいた話です)
それを聞かせていただいてますます感動していたら
「今の時間人いないし、君体重軽そうだから特別に上に上がってみる?」
との夢のようなお誘いが・・・!!
だてに体重40キロ台はキープしてませんぜ!!(コンプレックスでもある・・・)
「建築史を学ぶ学生」ということで特別に上がらせていただきました!!



それでは皆様、ごらんください。
貴重なロフトからの眺めです。



上から見てみると、また違う雰囲気・・・
リビングの広さ、解放感が一段と強調されています。
とても気持ちのいい空間です。
いや〜こんな幸せな気分久し振り・・・





上にはお昼寝用のベッドが置いてあります。
やわらかな日差しが心地いい・・・
前川先生もここでお昼寝していたのでしょうか・・・
ひとりで上がったロフトの上で
前川先生との束の間の「ひととき」を楽しませていただきました。

※今回は特別に許可をいただいてロフトに上がらせていただきましたが
  基本的にロフトは立ち入り禁止です。あしからず・・・





暗い時代でも輝きを失わなかった
建築家の豊かな発想が生んだ「光の家」
前川國男邸でした。



その他の写真を見る

2008.5.7

一覧に戻る
地域別一覧に戻る
時代別一覧に戻る

inserted by FC2 system