大阪中央郵便局

日本におけるDOCOMOMO100選

所在地 大阪府大阪市北区梅田
竣工 1939年(昭和14年)
設計 吉田鉄郎
逓信省経理局営繕課

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あ〜まだきれいなうちに見れた!!
ホントよかった、間に合って・・・

日本のモダニズム建築の歴史を考える上で外せない存在である
「アヴァンギャルドの英雄」東京中央郵便局
その姉妹が大阪に今もそのままの姿で残っています。
東京中央郵便局から8年後に完成したこの作品
現代建築への突破口を開いた吉田鉄郎とその仲間たちが再び挑んだ
戦前のモダニズム建築の傑作です。





大阪中央郵便局

完成は1939年、第二次世界大戦開戦の年に完成しました。
設計は姉貴分に当たる東京中央郵便局と同じく
吉田鉄郎(1894〜1956)と逓信省営繕課の同僚たち。
吉田鉄郎は40代にして東京と大阪という日本の二大都市の
「通信の顔」を手がけることとなったのです。
この作品も東京中央郵便局と同じように
完成当時から世界中の建築家から賛辞を贈られた存在です。





1930年代当時の日本建築界の状況については
前に東京中央郵便局のページで書きましたが
歴史様式主義とモダニズムがせめぎ合っていた状況でした。
そこに颯爽と登場した東京中央郵便局によって
吉田鉄郎はモダニズムの流れを決定づけた、かのように見えました。
「へっへ〜悪いな、辰野の爺さんよ。
 時代はどうやらオレッチに味方してるみたいだぜ〜」
そんな感じで吉田も意気揚々だったことでしょう。
(吉田がそんな変な言葉遣いだったかは知りません)





ところが・・・実際にはそうはいかなかったのです。
確かに世界建築界の主流は疑いなくモダニズムの方向へと向かっていました。
ドイツではバウハウスによって機能的・合理的な建築が追求され
フランスではル・コルビュジエが「白の時代」の名作たちを世に放ち
さらに1928年から始まったCIAM(シアム、近代建築国際会議)によって
モダニズム建築家の発言力・影響力はますます大きなものとなっていました。
1929年のCIAMには、日本代表として前川國男と山田守も参加するに至ります。
山田守は吉田鉄郎と同じく、当時逓信省営繕課の同僚でした。
吉田自身も「モダニスト日本代表」みたいな意識を持っていたのではないでしょうか。
もはやモダニズムの拡大を阻む存在は何もないかのように見えました。
当時の政治状況を除いて・・・



   

さて、この二つの建築・・・
右は大阪中央郵便局ですが、左側の和風のようで何だか妙な建築・・・
これは愛知県庁です。今も現役で使われている建物です。
この愛知県庁、なんと大阪中央郵便局の前年の1938年の完成。
この二つはほぼ同世代の建築ですが、その姿は極端に違っています。
この愛知県庁に見られるような、極端な和洋折衷の異様なデザイン
これこそが、1930年代のモダニズムの前に立ちはだかった
国粋主義建築様式「帝冠様式」なのです。





こちらは東京にある九段会館(旧軍人会館)。
これも帝冠様式を代表する存在です。
帝冠様式は歴史様式主義の延長線上にある存在ですが
単なる西洋建築のコピーという歴史様式主義とは
微妙に異なるコンセプトを持っています。
「近代化=西洋化」という単純な発想ではなく
「日本の伝統に立脚しつつ、かつ単なる未開で弱々しい日本ではなく
 力強く近代化を成し遂げた列強の一員たる日本」の建築を目指して見出されたのが
この何とも妙ちくりんな「帝冠様式」だったのです。

建築は時に政治と密接に結びつきますが
この帝冠様式も、当時の日本にとって極めて都合のいい建築様式として
1930年代には日本建築界の中心を占める勢力となりました。
日本の伝統と力強い近代化を同時に表現した帝冠様式は
軍部の影響力が拡大する中で、国威発揚にうってつけの様式でした。
(こんなデザインでホントに国威発揚になったんだろうか・・・)

一度は勢力を伸ばしたかのように見えたモダニズムも
公募コンペの場などから次々に締め出され
日本のモダニズムは急速に勢力を弱めていきました。
そして中には、帝冠様式に迎合し、モダニズムを捨てて
帝冠様式の案でコンペに応募するモダニズム建築家まで登場することに・・・
(丹下健三の黒歴史です・・・)





そんな状況の中で吉田鉄郎は、何とか根付きかけた
日本のモダニズムの火を消すまいと、この郵便局を設計します。

上で紹介した九段会館公募コンペでデザインが決定されたものです。
多くの建築家から設計案を募集し、「一番ふさわしい設計案」を選び出すというものです。
この時代の帝冠様式の建築の多くは、コンペによって設計案が選出されたものです。
こういうコンペには帝冠様式の案のみならず
果敢にもモダニズムの案を応募した建築家たちもいましたが
そのいずれも、帝冠様式の設計案の前に連戦連敗という結果でした。

・・・ここで実に狡猾なのが吉田鉄郎。
吉田は、たびたび書いているように、逓信省お抱えの建築家です。
吉田はこの自分の立場を最大限に利用して
コンペを通すことなく独占的に逓信省の建築を設計することができたのです
この極めておいしい立場を利用して、吉田鉄郎はここぞとばかりに
このとてつもないモダニズムの建築、大阪中央郵便局を設計するのです。





1938年当時、モダニズム建築は日本のみならず
世界的にも大変厳しい状況にありました。
モダニズムの中心地であったドイツではヒトラーが政権を掌握し
モダニズムなどの前衛芸術運動を「退廃芸術」として迫害していきました。
バウハウスは閉鎖され、グロピウスやミース・ファン・デル・ローエといった
モダニズムの巨匠たちは次々にアメリカなどに亡命していきます。
ブルーノ・タウトは亡命先のトルコで客死してしまいます。
ロシア構成主義の中心地であったソビエトでは、スターリンが政権を掌握し
コンスタンティン・メリニコフなどの前衛建築家が失脚していきます。





このように、モダニズムは当時厳しい状況に直面していました。
公募コンペではモダニズム案はまず確実にはじかれるという状況の中で
吉田鉄郎はある意味職権乱用まがいの行為によって
日本のモダニズムの火を守り通したのです。
当時のモダニズムを取り巻く状況の厳しさもあって
吉田がこの建築に注いだ熱情は並々ならぬものがあったはずです。
せっかく東京中央郵便局によってぶち開けた現代建築への道が
今再び塞がれようとしてしまっている・・・
それならばさらに完成度の高いモダニズム建築を作り上げて
再びモダニズムの道を示さなければ・・・
吉田は強迫観念に近い思いで、この建築を作り上げたのではないでしょうか。





「完璧なモダニズム建築を作り上げる」
という吉田の強い信念が生み出した大阪中央郵便局。
その強迫観念に近いほどの強烈な思いが込められたこの建築は
当時の建築界の度肝を抜く、とてつもない完成度を誇る作品に仕上がったのです。



次ページ:「神は細部に宿る」吉田鉄郎のドイツ流モダニズム

※次のページは自分でもあきれるぐらい長いです。
  でも、読めばこの建築のホントの凄さが感じてもらえるはずです。
  時間のある方、モノ好きな方、感動したい方(?)はどうぞ・・・

2009.4.2

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