東京中央郵便局

日本におけるDOCOMOMO100選
日本の近代建築20選

現在解体工事中

所在地 東京都千代田区丸の内
竣工 1931年(昭和6年)
設計 吉田鉄郎
逓信省経理局営繕課





東京中央郵便局

重厚な赤レンガの東京駅の目の前に
この名高い白亜のモダニズムが立っています。
上の写真は2005年6月に撮ったもの。
ちなみに管理人は当時高校2年生でした。
まだ外壁に保護用ネットが張られる前の
崇高な白の美しさを誇っていたころの中央郵便局です。
完成以来、世界中の建築家をうならせてきた絶世の名作です。

ドイツ表現主義の建築家ブルーノ・タウト(1880〜1938)は
東京中央郵便局を「日本の新建築の最高峰」と絶賛し
チェコ出身のモダニズム建築家アントニン・レーモンド(1888〜1976)は
「日本的解釈による現代建築がこの建物によって始まった」と評しました。

でも、普通の人から見たら、ただの白いビルって感じでしょう。
なぜこれほどまでに絶大な評価を得ているのか・・・
それは、この建築が現代まで続く
日本における近代主義建築の突破口を開いた存在だからなのです。





テレビではこいつに対する評価として
「戦前のモダニズム建築」という言葉ばかりが先行しているように感じました。
(この言葉でどれだけの人がこいつをちゃんと理解できるのか・・・
 あとテレビで「DOCOMOMO」という言葉を聞く日が来るとは思わなんだ)
「文化財としての価値」というのが多々言われていますが
僕はこいつはそんなんじゃないと思っています。

こいつは、明治以来の古い日本建築界を華麗にぶち壊した
偉大なる「アヴァンギャルドの英雄」なのです。
「古き良き文化財」なんて生易しいものじゃありません。
建築の革命(モダン・ムーヴメント)を象徴する存在なのです。



   

ちょっと並べてみました。
左が赤レンガの東京駅(1914)、右が中央郵便局(1931)です。
この両者は実際こんな感じで面と向かって立っています。
何が違うかって改めて書くまでもなく強烈な対照を示しています。

東京駅を設計したのは、明治建築界の巨峰、辰野金吾(1854〜1919)。
「日本建築界の父」とも言われた人です。
江戸時代の末に唐津藩(今の佐賀県)で生まれ
明治維新後に「お雇い外国人」ジョサイア・コンドルから建築を学びました。
日本で初めて近代建築を学んだことから「日本初の建築家」とも言われています。
その後多くの西洋風建築を設計し、日本の近代化に貢献しました。
日本の近代建築を切り開いた「日本人建築家第一世代」の巨匠です。





日本の近代建築は西洋の建築の模倣から始まりました。
明治時代はとにかく先進的な西洋の技術や文化を取り入れて
日本の近代化を推し進めようとしていた時代でした。
辰野金吾の建築は多くがイギリスの「クイーン・アン様式」にならっています。
(辰野の師のコンドルがイギリス人で、辰野もイギリスに留学したためです)
赤レンガと白い石材を組み合わせた水平の縞模様が特徴の華麗な様式です。
名前のとおりアン女王(位1702〜1714)の時代に流行しました。

でも、この時代の日本の建築はまだ「単純な西洋の模倣」でしかありませんでした。
辰野金吾は存命中、日本建築界に絶大な影響力を保持していました。
辰野が生きた時代、日本の近代建築はひたすら西洋建築を模倣していました。
しかし辰野が亡くなると、日本建築界は次第に西洋の模倣から脱却し
日本独自の新たな建築を探す試みが繰り返されました。
様々な様式が試みられ、次々に現れては消えていきました。





ちょうどその頃、ヨーロッパの建築界には
「モダン・ムーヴメント」の嵐が吹き荒れていました。
歴史に立脚しない全く新しい建築を目指したこの「建築の革命」は
様々な展開を繰り返しながら次第に広がっていきました。

1910年代末になると、日本にもごく一部の先進的な建築家によって
ヨーロッパを席巻していた「建築の革命」についての情報が
散発的にもたらされるようになりました。
後藤慶二(1883〜1919)は日本にドイツ表現主義を紹介し
武田五一(1872〜1938)はアール・ヌーヴォーを紹介し
今井兼次(1895〜1987)は「カタロニアの変人」ガウディを紹介し
堀口捨己(1895〜1984)はオランダのデ・スティルを紹介しました。
彼らのような若手の前衛建築家たちは
「明日の日本の建築を担うのは『モダニズム』だ!!」との信念のもとに
自分たちの手でモダニズム建築を実践し、世間に問うていきました。
上の写真は堀口捨己による「小出邸」(1925)
日本のモダン・ムーブメントの夜明けを告げる邸宅です。

しかし彼らアヴァンギャルドはまだまだ少数派でした。
彼らの作品は邸宅や学校、刑務所など世間に対して閉ざされた建築が多く
1920年代初めになっても、国の庁舎など公に開かれた大建築の多くは
辰野のような「歴史主義様式」の建築が主流を占めていました。
「装飾のない建築など見栄えがしない」という考えは
1930年代まで世間一般の大勢を占めていました。
これがこの時代のバックグラウンドです。





さて、ここでいよいよ主人公・吉田鉄郎の登場です。
吉田鉄郎(1894〜1956)は名門・東京帝大の建築学科の出身で
同じ東京帝大の堀口捨己、山田守の一学年先輩に当たります。
そして東京駅の辰野金吾の遠い後輩にも当たります。
彼もまた同級生たちの多くと同じように
ヨーロッパのモダン・ムーヴメントに深い関心を持っていました。
中でも彼はドイツのモダン・ムーヴメントに深い関心を寄せました。

ドイツ(当時のワイマール共和国)では「ワイマール文化」と呼ばれる前衛文化が開花し
表現主義などの多くの前衛建築の中心地となりました。
また吉田鉄郎が学生だった当時はまだ存在しませんでしたが
後に登場する「バウハウス」によってモダニズムの爆心地ともなりました。

大学を卒業した吉田は、逓信(ていしん)省の営繕(えいぜん)課に入ります。
逓信省は後の郵政省の前身です。今の日本郵便ですね。
「営繕課」というのは施設の営造、つまり設計と建設を行う部署のことです。
簡単に言うと逓信省お抱えの設計事務所といったところです。
この逓信省営繕課というのがなかなかの名門で
当時の日本で最も先進的な設計事務所のひとつとも言われるほどです。
メンバーの多くが東大の同窓ということもあり
東大の先進的な空気をそのまま移したような感じだったのでしょう。
東大の一年後輩の山田守も同じようにここに就職しています。

この先進的な空気の中で逓信省営繕課からは多くの名作が生まれ
のちに「逓信省建築」「逓信省モダニズム」とまで称されるようになりました。
吉田鉄郎の東京中央郵便局は、この「逓信省モダニズム」の最も早い時期の名作です。





この中央郵便局は何が偉大だったのか。
なぜ故に「アヴァンギャルドの英雄」なのか。
それは、この建築が「帝都の玄関」東京駅の真ん前にある
日本の通信を担う逓信省の「顔」といえる存在であり
しかもその「顔」が、東京駅という歴史主義建築の親玉の真ん前にありながら
前衛中の前衛である機能主義モダニズムの姿をしている!!

まさにこの点にあるのです。



   

言い換えれば・・・
貫禄あふれる老いた日本建築界の大将の正面に躍り出て
いきなり鋭い右ストレートを顔面に喰らわせ
足元にぶっ倒れた老いた大将に対して、こう言い放ったのです。
「観念しな。もう歴史主義建築の時代は終わりだ。
 これからは MODERNISM の時代だ。」と・・・
・・・この瞬間、日本建築界は「本物の」ヨーロッパの建築文化と
堂々と肩を並べる存在となったのです。

ウ ヒ ャ ー カ ッ コ イ イ ! !
さすが吉田鉄郎! 俺たちの出来ないことを平然とやってのけるッ!
そこにシビレるッ! あこがれるゥ!
吉田鉄郎(とゆかいな逓信省営繕課)は古い日本建築界をぶっ倒し
まさに帝都の真っ正面に、新しい時代の建築への突破口をぶち抜いたのです。
その恐れを知らずに突き進む勇敢な姿はまさしく
軍隊の前衛部隊(Avant-Garde)そのものです。
東京中央郵便局は、まさしく「アヴァンギャルドの英雄」なのです。
これが今に至るまでこいつが高い評価を得ている理由の一つであり
DOCOMOMOの中でも特にランクの高い「20選」に選出されている理由なのです。





こうして古い建築界をぶっ倒し
日本にモダニズムの風を吹き込んだ中央郵便局ですが
実際にはその後の日本建築史は、吉田が描いたような
「モダニズムの時代」というビジョンとは異なる方向に進みました。

昭和初期には「大正デモクラシー」の自由主義の精神もかき消され
(こういうモダニズムが受け入れられた背景の一つは
 大正デモクラシーのせいもあるのではと思っています)
軍部の台頭とともに国粋主義文化が拡大していきました。
そして建築界でも、一度は拡大したように思われたモダニズムも
国粋主義建築(帝冠様式)の前に迫害の対象となり
コンペでは次々にモダニズムの設計案が締め出され
「どこか妙な和風の建築」帝冠様式がそれに取って代わりました。

この時代には、前衛建築の中心地だったドイツ(ワイマール共和国→第三帝国)でも
ナチスの文化政策の中でモダニズムが「退廃芸術」とされ
それに代わってギリシャ・ローマ風の新古典主義建築が流行しました。
バウハウスは閉校され、多くのモダニズム建築家が外国に亡命しました。
(冒頭に出てきたブルーノ・タウトは、亡命先として日本を訪れ
 その際にこいつを見てあのような言葉を残しました。
 タウトに中央郵便局を見せたのは、他ならぬ吉田鉄郎その人でした)
同様の現象はファシスタ党のイタリアや、スターリン政権のソビエトにも見られました。
吉田鉄郎も東京を離れ、故郷の富山に引っこんでしまいます。





しかし、この建築があったからこそ
この建築が戦争を乗り越え、無傷で残ったからこそ
(目の前の東京駅は「宮殿と間違われて」爆撃されてしまいました)
戦後の日本でモダニズム建築文化が再び開花することとなったのです。
こいつはちゃんと、戦後日本建築界のための土壌を残しておいてくれたのです。
こいつがなかったら、もしかして日本のモダニズムは
もっと立ち遅れたものになっていたかもしれません。
こいつは、戦前の日本に確かにモダニズム文化があったことを証明することで
戦後の日本でモダニズムが受け入れられる土壌を残しておいてくれたのです。

日本建築文化の断絶を、こいつはギリギリのところでつなぎとめておいてくれたのです。





いや〜実に長くなりましたが(読むのも疲れますな)
これを極端にまとめて表現すると、テレビで言っているような
「戦前のモダニズム建築」ということになるわけです。
でもこれをちゃんと理解するには、近代建築史を結構知ってないと
こいつの本当の凄さはわかりにくいと思います。
(上の話は明治末から昭和初めまでの日本建築史を結構網羅しています)
「戦前の」「モダニズム」だから凄いわけです。
そこんところHさんはホントにわかってんのかな〜・・・

我ながら何ですが、これほど日本近代建築史とからめて
東京中央郵便局を解説しているサイトもそんなにないんじゃないかと思います。
ちょっと見た感じでは、多くのサイトは造形面での評価が中心なようです。
でもこいつの本当の凄さは
日本建築史に残したその巨大な足跡(Giant Steps)にあると
管理人は考えています。
ちょっと大げさかもしれませんが
こいつがなかったら、日本の建築は全然違う方向に進んでいたかもしれません。

だから、純粋に個人的見解としては・・・
残してもらえたらいいんだけどな〜・・・
モダニストにとっては「恩人」みたいな存在ですからね・・・
でもこいつが21世紀で「古き良き文化財」として見られていることを知ったら
吉田鉄郎はどう思うでしょうね・・・
自分は古い文化を破壊するために(物理的にじゃなくてですよ)こいつを作り上げたのに
それが今、逆に「古き良き文化財」として見られているとは・・・

管理人の中では「中央郵便局の件はもうしょうがない」ってことで
それなりの心の準備はしてたつもりですが・・・
それが今こんな形でいきなり蒸し返されて、ちょっと複雑な気持ちです。



一応一番書きたいことは大体書きましたが
歴史の話ばかりではあれですから
次のページでは東京中央郵便局の造形を紹介します。
一見ただの「白い箱モダニズム」の建築ですが
実は随所に吉田鉄郎の美学がちりばめられているのです。



次ページ:「モダニズム」東京中央郵便局の造形哲学

2009.3.4

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